透明になるのは居場所ではなくて

思い返せば中学生の頃には既に、自分が周りからどう思われているかが気になって仕方なかったと記憶している。生活班のメンバーの印象を書き出してみよう、という授業を受けた記憶があって、それは確か中学1年次の出来事だったと思う。中学1年生の私は、同じ小学校で過ごしてきた仲良しの子たちとクラスが分かれてしまって、毎日不安と寂しさの中で息を殺していた。悪目立ちしないことが重要で、そこに私の意思や人格はあって無いようなものだったと思う。クラスも、はたまた部活の人間関係も終わっていて、八方塞がりってこういうことを言うのかもしれなかった。

 

息を殺して生活するのが癖になってしまったのだろうか。家にいても、学校にも職場にも私の居場所らしい居場所があったと感じられた瞬間はとても少なく、いいなと思えた社会生活の場というのは音楽教室くらいなものだった。ある程度本音で話さなければ、誰かとの関係性は進展していかなくて、私は昔からそれをするのがとてつもなく苦手であると感じてきた。人の心の垣根を越えるのは難しい。気軽に話していい話題はどこからどこまでなのか、見極めている内に時間が流れて、気づけばそこに居場所はなくなっている。

 

そう感じているのは自分だけかもしれないと思って10年が経った今、少しだけ救われる物語と出会った。彼女は好きな女の子に、気軽に本音を教えてほしいと言われるけれど、自分はそんな上手に感情と言葉をリンクさせられないからそれは難しいことと思っている。見えるものが尊重される世界の中で、形にならずに秘められているものはどこまで尊ばれるだろう。昔見た映画で、登場人物が「言わない意見はないのと同じ」と吐き捨てたのを見て以来、それは棘となって刺さったままだ。話すのが下手じゃなかったら、居場所もわからなくならなかったのだろうか。

 

小学生や中学生の頃は、そんな考えすぎる性格もあってか「大人びてるね」と言われることもあった。だけど、割り切ることもそのままの自分を認められもせず、捻くれて育っただけの私は今、私史上最強に幼稚なのだろう。

 

今日も職場に居場所を見つけられず、さらには自分自身の気持ちを傷つけた結果、明日の昼に食べるパンを買わずに帰ってきた。こういうのをセルフネグレクトと言うのかもしれない。買い置きの栄養食を齧っておけば倒れないからそれでいい。どうせ働くのなら、食事をしないでも生きられるアンドロイドに生まれたかった。