くたびれた木曜日でさえ

知らない街の地下鉄に揺られながら、(今住んでいる場所から逃げてここに引っ越してアパートを借りてスーパーやコンビニや職場に通うようになったら、また私はどこか遠くへ行きたいと思うんだろうな)と考えた。私が私として生きている限り、有象無象になって溶け込んでしまいたい願望はいつまでも満たされないのだと思う。

誰にも見つかりたくなんかない。誰も私に期待してほしくなかった。自分の中にある破壊衝動は、ときに自分をあらぬ方向へと導く。知らない街で電車の乗り換えがわからなくなって途方に暮れたい。北も南もわからない方向感覚で世界の広さに溺れたい。目の前を通り過ぎる新幹線の轟音が耳をつんざく。2年ぶりに一人で飛び乗った新幹線は、86分で私を未踏の地へと連れ去った。

 

知らない街じゃなくても、初めて行く場所では迷子になる。学生の頃、校外での授業に駅から徒歩5分の場所を指定された。スマホで調べたら徒歩5分だったから、たぶん大丈夫だろうと思ってずんずん歩いた。随分と細い道を行くんだなあと思いながら薄暗い路地を進む。開店前のバーやスナックが軒を連ねる。そういえば私はお酒が飲める年齢なのにそういった場にはほとんど足を踏み入れたことがない。お酒の飲み方を知らないまま時間だけが過ぎていく。ほろよい一缶で酔えるし、昨年末にはアルコール度数7%のレモンサワーを一缶飲んだら潰れてしまった。自分とは縁遠い世界が実はこんなにも近くにあることに少しの戸惑いを感じた。結局目的の場所へは辿り着けず、友人に迎えに来てもらって、さらに授業にも遅れた。あれ以来、徒歩5分の場所でも舐めてはいけないと思うようになった。

 

11月も下旬になると、高校時代の友人の誕生日が迫っていることを思い出す。12月1日。数学の成績はいつも赤点ギリギリで、誰かの誕生日を記憶するのも苦手なほど数字にアレルギーがある私であっても、この並びは覚えられた。当日までもう10日もないのか、と仕事帰りのバスの中でぼんやり考える。友人と最後に会ったのは恐らく大学3年の夏だ。どこの企業にインターンシップに行くとかそういう話をカフェでしていた。昼時だったので私はパスタを、友人はハンバーグプレートのセットを注文した。そのセットにはお味噌汁がついていて、友人はそっと確かめるようにお椀に口をつける。友人は私より食べるのがゆっくりな数少ない人間で、ラーメンであっても一本一本麺を啜るような人だった。その代わり所作が抜群に綺麗で、そんな友人と過ごす時間を私は好いていた。けれど友人とはもう数年会っていない。あの頃は悩みも本音も喋ったけれど、誕生日を祝うことすらしなくなった今の関係じゃ、もしかしたら私ばかりが友人を好いていたのかもしれないと思っても仕方がなかった。愛おしいものは失ってから、遠ざかってからがいちばん愛おしいのかもしれない。くたびれてしまった木曜日も、何年か後に振り返ったら愛おしいものの一部になっているのかもしれない。そういう想像をして、なんとかやり過ごすのが大人になるという生き方なのだろう。