忘れかけているもの

社会人1年目の夏からずっと、人生が社会に追いつけない感覚を抱えている。いつかそんな感覚も通り越して、諦めがついたのなら大人として働ける日が来るのだと信じていたけれど、三つ子の魂百までではないが、そんな私の子供じみた怠慢と甘えは何年社会人をやっても消えてくれそうにない。

 

昨日、久しぶりにメンタルクリニックに行ってきた。知らない街の、初めて会う先生。先生は淡々と私の話を聞き、悲しかったこと、苦しいこと、今後どうしていきたいかを的確に聞き出していく。初診だったにもかかわらず、即日で診断書を書いてくれた。適応障害、休養1ヶ月だそうだ。

 

思い返せば、私は幼い頃から自分で自分の感情がわからなかった。わからなかった、は少し言いすぎかもしれない。悲しい、嬉しい、楽しい。おおまかな感情はわかってはいたんだけれど、感情の種類がもっと細かく存在することや、存在してもいいことを自分自身に許せていなかったような気がする。そして、それらの感情はもっと表現してもいいものだと知ったのは大人になって何年も経った、ここ数年のことだ。

 

昨年、友人と行った花火大会で、声入りの動画を撮ってもらったんだけれど、そこに記録されていた私の声があんまりにも平坦で抑揚がなかったから、だいぶ驚いた記憶がある。打ち上がる花火の音と光に、何十年ぶりに著た浴衣の可愛らしさに確かに浮かれていたはずでも、スマホを通して伝わってくる自分の声は想像以上に淡泊だった。こんなはずじゃないのにな、と自分で自分に首をかしげた。

 

自分ではこんなにも感情ジェットコースターでごめん、とすら思っているのに、周りから見たら全然そうでもないらしいから驚く。感情がわかりにくいね、という言葉を、それぞれ細かなニュアンスは違えど、父親とその花火を見に行った友人と、前職と現職の上司に言われた。彼ら彼女らは時に諭すように、時に興味深げに、そして時にはそんなわかりにくい私に不満だという表情でそれを届けてくれた。私が、わかりにくいことを。でも、彼らは皆、私を放棄しなかったと今なら分かる。大切にしようとしてくれていた。してくれた。わかりにくい私を、一生懸命向き合おうとしてくれたのだと思う。

 

一方の私は、彼らの言葉に込められた愛に気づけなかった。そうして、孤独だと思い込んだ。知らない場所に移り住んで、誰も知らない場所で生活をすること。そうすれば全部大丈夫になると思っていた。でも、大丈夫にはなれなかった。大丈夫になるのは難しいことを私は忘れていた。「大丈夫」は簡単には手に入らない。いつだってそうだった、私は得体の知れない「大丈夫」を求めていつもどこかを彷徨っている。人生を遠回りし続けている。

社会人になって数年が経過した昨年、二人の友人から結婚の報告を受けた。もうそんな年齢に差し掛かっている。時間はいつも無情に流れていく。私はここに留まったまま。ずっと、私はこうやって生きていく気がしている。諦めだし、納得だし、納得するために理由をいくつも並べている。納得の中に生きるほかない。私の欲しい「大丈夫」も「納得」も、自分の中にしか答えは埋まっていないんだと思う。人生にデータ消去が存在するのなら、一度自分①のデータを全部消して、自分②のデータを作り直して再開したい。そんな後悔と羞恥に溢れている。

 

好きな音楽も、好きな服も、好きな景色も、しばらく触れていないと好きだった感情すら忘れていく。この期間を経たら取り戻せるだろうか。現に今、久しぶりでうまく綴れなくなった感情を確かめるように文字におこしながら、そんなことを考えている。