大王でも知らない秘密

全てを言語化できなくてもいいとは思うものの、言語化したい何かがあるからそれを知るために文章を書こうとしたのに行き詰まってしまうような苦しさが最近増えたような気がする。

今も実はもっと別のことについて最初書いていたにも関わらず、なんだかそれは内面を曝け出しすぎているような気がしてこうしてまた最初から文章を書き直しているし、だけどこの文章の着地点をどうするかは今全く考えていない。日記って、そういうものだろうか。

 

先日、飛行機に乗って北海道に行った。

ここ数年、北海道に行くことが増えて新千歳空港に降り立つとただいまと言いたくなるような感覚さえあるけれど、特に北海道に知人らしい知人はいないし、全部私が行きたくて勝手にやっていることでしかないが、特に札幌周辺の空気感が好きすぎていつか移住できないかなと半分本気、半分冗談だけど考え続けている。

温暖な地域の出身の身体でどこまで冬の寒さと雪に耐えられるかどうかが最大の焦点じゃないだろうか。

 

16時過ぎ、宿泊先のホテルで空を見上げたら、雲ひとつない空に白い月が浮かんでいたので写真を撮った。

社会人になってから空を見るのがちょっとした趣味で時々空の写真なんかも撮ったりしていたけれど、上京してからは空に伸びる建物の多さゆえにあまり好きな空が撮れないと感じてしまって、レンズを頭上に向けることがめっきり減っていた。

だから久しぶりに撮りたいなと思えたことや撮りたい空があることに胸が弾んだし、空に意識を向ける時間を取れたことも嬉しかった。

今はまた東京の家でこれを書いているけれど、今日もあの場所から見上げる空には月が浮かんでいるだろうか。

 

少しずつ寒くなってきたなと思っていたらもういつの間にか10月も終わりに差し掛かっている。

年々時の流れが速く感じられるようになっていて、自分も確実に歳を重ねているのだと嫌でも実感してしまうが、それならもう少し考え方も早く大人になってくれたらいいのだけれど、それはなかなか実年齢と同期しないらしい。

結局人間って、日々の忙しさの中にやりたいこと、やりたくないけどやらないといけないこと、行きたい場所と愛したいもの、だけどままならない事情のため燻るだけの日々が理想と現実の狭間に混在していて何から手をつけていいかわからなくなっているうちに一生を終えるんじゃないかと思うし、少なくとも今の私はそんな感じだ。

 

ここまで書いてみたけれどやっぱり胸の内で蠢く衝動と不安と焦りと期待のような感情はうまく言葉にできなかったと感じる。

わからないままでもいいよと許せる余白を許したいと思うと思う一方で、今夜の自分はそう感じることの正体をどうしても知りたくてこんな時間まで日記を書いてしまったから、たぶん明日は寝不足で出社することになるんだと思う。

空っぽのステッキを振り続けている

子どもの頃から魔法少女になりたいと思ったことがないと思った。

育った家にテレビはあったし、どれみちゃんもプリキュアも見ていた幼少期だったけれど、その登場人物誰かに憧れたことはなくて、どちらかというと敵である悪役組織の面々たちが声を張り上げて叫ぶ主義主張に共感することの方が多い子どもだったかもしれない。

 

でも、少なくとも魔法少女たちがもつ見た目の「かわいい」には憧れたから、いろいろな魔法少女アイテムのおもちゃは買ってもらったけれど、私はその魔法少女たちになって敵を倒したいわけでも、誰かの役に立ちたいわけでもなかった。特別可愛いわけでもない、友達が多いわけでもない、明るい性格でもない。自分には無い、誰かのために踏ん張る気持ちだとか、信じたものをまっすぐ信じ抜く強さだとか、苦手なものに立ち向かう勇気だとか、幼いながらも感じていた自分が持たざる彼女らのキラキラした性質に憧れ続けていたし、そういう彼女たちだからこそかっこよく纏える「かわいい」を素敵だと思った。ただ、おもちゃのステッキを振るとき、彼女たちになりきる一種の高揚感を手にしながらも、どこかで「彼女たちとまるで違う私が、こんな遊びをして何になるんだろう」と諦める気持ちもあった。

 

職場を離れてしばらくが経つけれど、未だに当時の苦い記憶に苛まれる暮らしをしている。入社後半年で迎えた繁忙期の忙しさと続々と起こるイレギュラー対応についていけず心をすり減らし、休日も仕事のことが頭から離れず休まらなかったこと。休職後初めて迎えた日曜日の夕方、一人で過ごしたカフェで「明日からの1週間のために作り置きのおかずを作らなくてもいいんだ」と思えて景色に色が戻ったこと。希望に縋るように繰り返し聴き続けたアイドルの音楽があったこと。どれもが全部当時のままの感覚で思い出すことができて、まだ苦しさの破片は散らかったままだ。家で過ごす時間は嫌いではないし、むしろ好きだけれど、いつまでこうしているんだろうという不安と、じゃあ何をしたらこの不安から抜け出すことができるんだろうという不安、答えはなんとなくわかっていても踏み出した後の逆戻りが怖くて何もしたくない自分がいてすべてが恐ろしく見えてしまって、そういうものから逃れるようにカフェに出かけることが増えた。何かに憧れる気持ちは残っているのに、最初の一歩の踏み出し方を忘れてしまった。なんだってできるはずだし、今からでもできることはたくさんあると心は信じたがっているけれど、ただ無邪気なだけでは大人は社会の乗組員として認められない。

 

でも、何も知らない人がこの日記を読んだら、すべては何もしない自分を正当化するための言い訳にしか見えないだろうから、結局どうにかして一歩を踏み出すしかないのだろうと思う。とりあえずやってみること。先週配信で見たラストライブで、メンバーの一人がそんなことを語っていた。できるかできないかじゃなく、やるかやらないか。大人になるというのはそういうことなんだろう。

火にかけた鍋の中を見つめるとき

また少しずつ少しずつ、自分が何を考えて何をしたいか、客観的に自分を見ることができなくなりつつある感覚があり、完全にふさぎ込んでしまう前に今考えていることを書き残しておきたいから久しぶりに綴りに来た。大丈夫と大丈夫じゃないを繰り返し、いつ本当に大丈夫ではなくなるかわからないから、ギリギリ大丈夫なうちに手を打つ必要があるのは経験上わかっている。

 

昨年11月末から12月中旬にかけて、残業が1時間半~2時間が当たり前であるような忙しさが続くような生活をしていた。人によってはそのくらいの残業は日常茶飯事かもしれないが、私にとってみれば地獄である。家に帰れば20時は当たり前に過ぎ、遅いと22時頃になるような日もあった。かろうじて休憩は取るように努めていたが、30分休憩の日もそれなりにあったし、何よりストレス(主に苛立ち)から来るコンビニでの衝動買いがしょっちゅうだった。

 

繁忙期でない平時であっても、至急の対応が必要な依頼がしょっちゅう舞い込んでくるし、それらへの対応方法もまったくパターン化されておらず、業界未経験の初心者にとって心臓に悪いものばかりで職場にいる間は心がまったく休まらない。仕事をしに行っているのだから、多少の忙しさや面倒なことはどこの職場だってあるはず、誰だってそういうことは経験するもの。つらいのは自分だけじゃない──。そう言い聞かせてきたが、少しずつ限界が見え始めている感覚がある。トイレで涙を抑えることもしばしば。慢性的な不安と疲労感。希死念慮。3連休であっても、2日目の朝には既に翌々日からの労働で憂鬱さに苛まれている。

無音の空間にいると常に労働への憂鬱さが頭をよぎって重苦しい気分になるので、明るい音楽を聴いて必死に誤魔化す。低血圧のためか子どもの頃から朝は弱かったが、起きた際の倦怠感のレベルが入社当初より数段階上がっており、午後にならないとギアが上がらない。土曜日に早起きして出かけていく趣味も、今は睡眠を優先してしまって満足に楽しめているとは言い難い。何のための転職で、何のためのこの身分だったんだろう。当初思い描いていたものが全部叶うわけもないけれど、望んでいたものが1つも手に入らない境遇で文句を言わずに過ごせというのもまた過酷すぎやしないか。

 

人が亡くなる前、相続だとか家のことをどうするか遺された人に向けて書き記したものを遺言書なんて読んだりするが、このまま何十年と同じような生活が自分で続いたとして(ずっと同じだなんてありえるはずもないのだけれど)、そうした言葉を伝えておく相手はきっとこの世に存在しない。大学の文学の講義を履修していたとき、黒板に文字を書きながら教授が「私の将来の夢は孤独死だ」と言っていたけれど、同様に自分の将来の夢もそれであるというか、そうなるしかないんだろうという気持ちがもうぼんやりと、それこそ大学生の頃からずっとある。人と同じ屋根の下で生活して気が休まることがないからだ。

一人、静かな場所で揺れることのない水面のような心地で生きていたい。労働に人生を支配されたくない。有り余る富も権力もいらない。誰にも必要とされず認められもしなくても、細々とどうにか生きていられれば多くを求めない。心に余裕を持って、日常のせわしなさに飲み込まれないで生きていたい。呼吸の深さに気づける生活がしたい。誰か何かの幸せを祈れる自分でありたい。ただそれだけの人生である。逆に、それが叶わないのであれば私はこの人生に意味を見いだせない。生きていたって何もないまではないけれど、限りなくゼロに近い無駄とさえ思える。手作りのポトフの鍋をそっとかき混ぜるときのあたたかさのような、そんな安寧にずっと憧れている。

 

この社会に揉まれても折れない、それだけの心と体力が欲しかった。ないものをねだっても仕方が無いが、「正解」の道をあるけない自分が自分の脚で生きていくのは改めて難しいことなのだと再認識するのはいつも厳しくてつらくて、歩みを止めてしまいたいと思う。自分にとっての最適解を見つけるより先に寿命の方が先に尽きてしまっても何も不思議じゃないなと思ったりしている。一を認識して百を諦めるような、そういう弱さに折り合いをつけて生きていくのは難しいけれど、これもまた自分の人生に課せられた課題なんだろうなと思う。どこでなら、どんな環境でなら生きていられるんだろう。仕事がつらいのを環境のせいにして自分に非がないような文章を書いている自分のこともまるで好きではないが、じゃあどこでならつらいって言っていいんだろう。

 

社会人の多くが飲み込める理不尽やつらさを耐えられない自分のことが嫌い。そう母に言ってみたら「そんなに自分を責めなくていいよ」と言ってもらえたけれど、それはあくまで娘を思う家族からの視点だ。社会を構成する大人として見てみたらまるで不良品だ。だけれども、世の中には私と同じような悩みを持つ人もいるんだろう。その人たちが自分自身をそう卑下していたら、私は絶対に「そうですね、あなたはゴミですね」なんて言いたくないが、なぜ相手が自分だと簡単に傷つけるようなことを言えてしまうんだろう。自分を大切にすることと生きることは恐らくイコールで繋がっていて、それが私にとってはものすごく難しいことだと感じる。深く息を吸うこともままならない、そういう日々の中に訪れる安寧って遥か遠い夢物語のようで現実味がない。自分が求めているのはそういう幼稚で未熟な、どうしようもない理想郷なのかもしれない。60点で生きることに慣れることが人生に求めすぎないコツなのだと、永遠に実行できない身体で生きながら考えている。

誰かの日々を願うことが

休日、目が覚めてベッドから起き出して窓を開けたときに、からっとした秋の風が入り込んでくる夏の終わりが好きだ。今日は着ているものこそまだ夏のそれだけれど、この時間までクーラーをつけずに部屋の中で過ごすことができていて、確実に季節は進んでいるのだと感じる。作業をして一息つくとき、お伴に飲むものを冷たい麦茶にするか、あたたかい紅茶にするか少し悩んだ末に取り出したのはセイロンティーのティーバッグ。先日実家から送られてきた荷物の中に入っていたそれは紅茶にしては珍しく、カップの縁に引っかけて抽出するタイプだった。慣れない手つきで裏面の説明書きを参考に、鼻歌を歌いながら湧かした熱湯を注ぐ。きっと1ヶ月後には、湯気が立ち上るこの光景がもっと似合う季節になっているんだろう。これから訪れる秋冬を思うと胸にあたたかい気持ちが広がった。

 

物心ついた頃から何もしない時間がいっとう好きだった。昼近くに目が覚めるベッドの中で見るスマホ、外から聞こえる車の走る音や子どもたちの声を聞きながら何もしないだけの午後、ようやく区切りがついて窓の外に広がる夕焼けを見上げた仕事の日の夕方。日々、忙しなく時間は流れていくけれど、こうやって何かそこにいる自分の輪郭を確かめるような瞬間がとても愛おしいと感じるし、それが私にとって大切な時間のように思う。焦らないこと。基準のわからない何かに飲み込まれないこと。この年齢まで生きてみても、なぜ生きているのかもどうやって生きていたいかも探し続けるばかりだけれど、ようやく自分を大切にすることに意識を向けられるようになってきたと感じる。心躍る瞬間も、くたびれて悲しくなってしまう日も、全部丸ごと抱きしめて自分の人生だ。口に放り込んだアーモンドパイの香ばしさが鼻に抜けた。こういう小さな幸せに気づくこと、それが自分を生かすことに繋がると信じて。

 

ここまで書いてみて再確認するけれど、未来というのは今日と明日を繰り返した先にあるものだと私は定義しているんだろう。穏やかに過ごせる休日も、憂鬱な明日も全部未来の自分が振り返ったときにとっては足跡で、そこに至るまでに歩いてきた道筋だ。どんなことを思ってもいい、どんな選択をしてもいい。ただ、感情と選択がちぐはぐにならなければ。先日会った人にそんなことを言ってもらえて、それが今に揺れる自分の心を支えるお守りになっている気がする。

 

このブログは、自分の心の整理のために始めたものだから、自分のためでしかないけれど、何か誰かとお喋りをするとき、連絡のためにキーボードを叩くとき、その時に紡ぐ祈りは「あなたに寄り添えていますように」ということだったりする。誰かのためにできることは多くはないかもしれないけれど、ここであなたを待っているから。いつでも止まり木になるから。そういう気持ちで、私は私の場所から何か誰かのために祈っていたいし、自分のことも大切にしていけたらいいと思っている。それは時にわかりにくいかもしれないけれど、届く人には届く愛の形であればいいと思う。誰かのためが、自然と自分のためになっているような、一見欲張りだけど叶えたい理想を持つことは悪いことではないと信じたい。理想が道しるべとなって、明日以降の私を照らすから。

 

さよならはいつか再会を叶えるための

今年に入って一番聴いている曲がNOMELON NOLEMONの『ミッドナイト・リフレクション』であることはほぼ間違いないような気がしていて、例えば洗濯物を干すときだとか食べた後の食器を洗うときなんかに繰り返し聴いているお気に入りの一曲になった。

個人差はあると思うけれど、音楽はそうやって少しずつ日常のどこかに溶け込んでいて、気づけばお気に入りのワンフレーズを口ずさんでいたり、勤務中の小休止のタイミングで歌詞とメロディーを反芻したりしている。少なくとも私はそんな感じで、日々に音楽があったし、逆に言えば音楽のない日々というの今からではだいぶ想像し難いものだと思う。だから『ミッドナイト・リフレクション』を一番聴いていた2月、私は今もこの曲を聴くと当時考えていたことや自分に降りかかった出来事を思い出すし、思い出すと言うよりも当時に引き戻されると表現した方がいいと思えるくらいその頃が背後に迫るような感覚がある。

 

このブログでも触れたけれど、今年の2月は最推しである競走馬が引退をした時期で、だからこの『ミッドナイト・リフレクション』を聴くと、当時胸に押し寄せていた感情が鮮明に蘇る。この曲の歌い出しは「さよならと聞こえた気がした」というものなんだけど、当時この曲を口ずさみながら未だ復帰の知らせが届かない彼を思って(もしかしたら彼と競馬場で会うことはもうないかもしれないな)と考えてもいた。たまたまの話だけれど、「もう競走馬の姿では会えないかも」と考えていたのが結果的に本当になってしまった。この冒頭を聴くだけで、そういう悲しさというかやるせなさというか、でもこれ以上の負担が彼の脚にのしかからなくてよかっただとか、全く論理的に説明できない当時抱えていた感情が、半年の時間を経てもなお大きなうねりとなって押し寄せてくる。会いたい、会えない、会えない。彼を応援してきた時間の中に大きな未練は残さないようにしてきたけれど、再会を待ち焦がれていた相手からの「さよなら」の知らせは、彼を希望に生きることを覚えてしまった後の身体には大きな損失だった。

 

競走馬の彼にはもう会えない。だけど来月、種牡馬となった彼に会いに行くことを決めた。深夜、「会える」という情報をスマホを見つけた瞬間に決めた。ほぼ衝動だった。彼が好きだから会いに行く、会えるのなら会いに行く。ただそれだけの理由でもう飛行機を予約してしまったし、ホテルも取ってしまった。

ちょうど2年前の夏も同じく北海道で走る彼に会いたくてこんなふうに勢いだけで旅程を汲んで会いに行ったことを思い出すと、当時と今とで彼に向ける気持ちの大きさは何も変わっていないんだなと思うし、「会いたい」に突き動かされて決めてしまう自分のこともしょうがないなと思いつつそれほど嫌いにもなれない。

ここから先約1ヶ月、間違いなく彼に会うことが日々を生きる理由になるし、誰か何かに会いたいから毎日を乗り越えていけるのは美しいことだと感じる。いつか機会があったら絶対会いに行く。そういう気持ちで半年を過してきたけれど、本当に叶いそうになっている現実を前に急展開過ぎて目が回る気もするけれど、少しくらい目まぐるしくて嬉しさの波に溺れている方がきっと私は上手に呼吸ができる気がする。

 

うまく行かない日もあればうまく行く日もある。0と100じゃなくて、もっと程度にグラデーションを持たせて生きてもいいこと。こんなもんだよなという言葉が意外とお守りになって立ち直る勇気をくれること。この2ヶ月で発見したそういうことも、馬房越しに彼に会えたら報告したいなと思っていたりする。ずっと会いたかったし、大好きだよと伝えたい(彼は馬だから人の言葉は理解できないけれど、それでもだ)。明日もちゃんと生きるから、だからどうか、計画立てたこの旅が良いものになりますように。何より彼も、健やかに生きていてくれますように。生き延びることを重ねていったら彼に会えるから、明日も頑張ってみようと思えることが今はすごく嬉しい。

この身体に許された自由

意識してもいなかったけれど、私にとって本音で話すことはあと何回生まれ変わったらできるようになるんだろうと考えてしまう程度には難しいことで、そのことに気づくまでにおよそ20年もかかってしまうのだから人生にはいくら時間があっても足りない。それに気づいたきっかけは、同じようにそう語るひとがいたからだと思う。

 

3連休の前夜、何も考えられないままの身体でキッチンに立って、レトルトの親子丼とひじきの煮物を皿に移し、冷凍のブロッコリーでレンチンのお浸しを作る。考えられなくても、生きるためにただ身体が動く。ぼんやりと思うことだけど、日用品だとか調味料だとか化粧水だとか、日常的に使っているものってなぜかいつも同時になくなるような気がする。今はドレッシングと醤油、焼き肉のタレがなくなりそうだから次スーパーに行ったら買わないといけない。時間があるときには調味料を複数混ぜた味付けをする料理ができるけれど、最近はこれを使えば味がつく、の精神で焼き肉のタレに頼る場面が増えた。

 

先週末から休みが待ち遠しかったけれど、いざ連休の前夜になると何をして良いか分からなくなってしまったから久しぶりに日記を綴ることにした。私は今、何をしたら自分を満たせるのだろう。何をしたら自分をいたわれるのだろう。月は1ヶ月の中でゆっくりと自分を失っても、またゆっくりと失ったものを取り戻してゆくところが美しいと思う。人にもきっとゆっくりと自分を見つめるための時間が必要であるはずなんだけど、気づいたら1週間が終わっているような時間の数え方をしているからやっぱり社会に馴染むのは難しいなと思う。それこそ、本音で話をするのと同じくらいに。大丈夫になりたい。社会に出た頃から変わらないその願いは今もまだ叶っていると思えないし、もしかしたら一生叶わないような気もしている。

 

足を止めずに進み続けることが正しい世界の中で、立ち止まって考えたい私の居場所はあるんだろうかとか、そういうことを考えて黙り込んでしまうから苦しい。でも、できることならそんな自分を大切にしてあげたいし、愛してもあげたかった。誰かを思う気持ちの大きさと同じくらいの量で自分のことも大切にできるようになったらもう少し肩の力を抜いて街を歩けるようになるのかもしれないけれど、今はまだそれに気づけただけでも充分だとも思う。人は誰しも完璧じゃないし、ないものを見つめだしたらその欲望は暴走してしまうから。いつか手に入るかもしれないし、手に入らなくてもそれもまた自分の人生かもしれない。誰か何かと比較して羨む生き方だけはしたくないから、今の自分が何を思っていてどうしたいか、それを無視せずに拾うことを意識したい。

 

今夜眠って朝日が昇ったら、明日の自分は何をしていたいだろうか。泳ぐ魚を見に行くのも良いし、夜の散歩をするのでもいいし、何もしなくたっていい。自由だ。私はどこにでも行けるしなんだってしていい。この身体に許された人生の時間を静かに噛みしめること、それが私にとっての生きることなんだと思う。

真綿と荒波

新しい職場で働き始めて迎える金曜もこれで3度目だ。これまでの1年と少しの間、曜日を意識せず、ただ道に伸びる影の長さや風の音なんかで毎日を数えるような暮らしをしていた。それは確かに当時の自分に必要な時間だったと思うし、そのような時間の流れの中にいたことを今の自分はちゃんと肯定してあげられている。自分のために時間を使うこと。心ときめくものに囲まれていいこと。自分の感情をただ「そう」と認めること。他人の感情や問題を自分の中に持ち込んで、責任を感じすぎないこと。そういう何気ないけれど確かにこれから先、一瞬と呼ぶには長い人生を歩いて行くためにきっと役に立つヒントを学んで過ごした1年だった。やわらかい人たちに囲まれて、責められることはなくて、ただ把握と受容がそこにあった。それに幾度となく救われた。

 

今日の職場では業務の引き継ぎと改善についてのミーティングが開かれて、耳を傾けながら(入ったばかりでわからないことがほとんどだから私が発言できることはほぼない)、言葉の選び方で人の気持ちは様々に動くし、その逆もあるのかもしれないと考えていた。自分が何かを言われたわけではないけれど、まるで訊問のような形式で行われるそれは、果たして言われた側の気持ちやモチベーションを高める効果があったのだろうかと考えてしまった。もし自分が、何かそういう立場についたのならどういう伝え方をしただろう。私から届ける言葉は、誰かの心をあたためたり励ましたり、そっと背中を押すために使いたい。誰かを傷つけたり、蔑んだり、蹴落としたり。そういうことのために使いたくなかった。

 

私たちは、利益を出して生き残る者が正しいサバイバルゲームの世界、資本主義社会に生きている。社会から離れて感性のみの中に生きているとすっかり忘れてしまうけれど、自分が戻ったのはそういう場所で、だからこうして、心を曇らせた出来事や感情について整理する時間が必要だし、その時間と行為は私に取っての解毒薬になるのだと思う。いつしか別の場所で自分の創作や言葉の原動力を振り返ってみて、それが「悲しさ」であると結論づけたことがある。それは今も昔も変わらなくて、ただその「悲しさ」を今の自分なら以前よりも上手に寄り添ってあげられるような気もしている。今日のミーティングをきっかけに考えていた言葉の選び方についても、結局その裏側にあったのは人と人とのコミュニケーションで生じる摩擦を憂う心だったし、でも同時にそれを「自分はそうなりたくないんだね」と静かに見つめることもできたと思う。なりたい姿がある。それを定められたと思えば、悲しさでできるシミはきっと1つ減った。

 

明日は休日だからアラームをかけずに心ゆくまで眠りたい。日が沈んで街が藍色になる頃に、サンダルを履いて家を出たい。爪先はゴールドのラメを散りばめたピスタチオのネイルで彩ってある。6月とは思えない暑さが続いているし、その暑さに体力がじりじりと奪われるから夏はあまり得意ではない。でも、日々を生きていくために必要な小さな幸せを感じ取るためにも休息と栄養をきちんと取ること、それは忘れたくないと思う。