怪物

一時的な感傷だと思いたいけれど、もう何をしても意味がないのかもしれないと思ってしまっている。これ以上生きていたって意味がない。

 

数年前から常に希死念慮を抱いたまま生きている。キシネンリョ。一発で変換させてくれないこのノートパソコンも、「ヘルプが利用可能」と検索結果に表示してくるGoogleも、死ぬな生きろと厚かましいメッセージを送ってくるお節介な偽善者にしか見えなかった。死なないよ。死ぬ勇気なんかないから。先日1人で行った水族館には、修学旅行中の中学生が大勢訪れていて、10年くらい前は私もそちら側だったのだなあと思った。黒い就活用スーツに身を包んだ私は水槽の前で推しのアクスタを掲げて、アクスタの推しと魚を一緒に撮影していた。サイズの合わないパンプスを履いているせいで爪先が痛む。推しはいつも一途でひたむきで、何より生きていたくて生きている。眩しかった。手が届かなくていいと思った。見向きされない場所にいてくれて本当によかった。なあ、見てるか、10年後の自分。中学も高校も大学も卒業できたけれど、この通り立派なはみ出し者になったぞ。キラキラしたバリキャリ(バリキャリって死語?)なんかにはなれないよ。笑いなよ。笑え。

 

どんなに破滅的な文章を書いたって、ハトの鳴き声が響く田舎の住宅街が雑踏と巨大広告の交差点に変わるわけじゃないし、コミュ障根暗ぼっちが明日からいきなりフレンドリー人望ありまくり人間に生まれ変わるわけでもない。願うだけ無駄。手の届かないものに憧れるのはもうやめなよ。根本から変わるなんてもう無理だ。できないのならできないまま生きていく方法を探せよ。今できる方法で戦え。ないものねだりをしたって仕方がないんだから。生きている意味なんてないよ。意味なんてないまま生まれて死ぬんだよ。何も考えていない人の方が幸せそうな顔をしているのはそういうことだよ。考えるからつらくて不安で死にたくなって、繊細で真面目な星に行き着いたっていいことなんて一つもなかった。自分が嫌いだ。気づいたらそう、小学生の頃には既に自分のことなんか大嫌いだった。思い出なんて全部焼け落ちればいい。アルバムも日記帳も習い事のピアノで使った楽譜も、今見たら全部全部意味がないよ。写真の中の幸せそうな顔した5歳の私を、死んだ表情筋で見下ろす今の私こそが何よりの怪物だ。こんな怪物、一生救われないまま、野垂れ死ぬのが似合ってる。これまで書き連ねてきた日記で、言いたかったことは全部こういうことだ。生きていてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。

 

消えたいと思ってしまったら、どうやり過ごすのがいいんだろう。居場所がないと思ったらどこへ探しに行けば良いんだろう。一般的に健全な気持ちで生きて行けたのなら、こんなふうに消えたくなったり、誰彼もの記憶から消えてなくなりたいとか考えないんだろうか。繋ぎ目は繋ぎ目、一度割れてしまったガラスを完全体に戻すことなんてできるわけがない。通院を忘れた身体はそういう大事なことも忘れていた。

 

どこにも行けない。どこにも行く場所がない。一度失敗したら終わり。未来の自分が「一度失敗したら終わりだなんてそんなことないよ」と成功者の顔をして言っても、今だけはそういう自分を蹴り飛ばしても許してほしい。今抱えた焦燥と怒りは今解決できなきゃ意味がない。

 

こんな文章を書いているけれど、今日は私が生まれた日らしい。すごい、恐らく今までで一番最悪な気分で今日という日を過ごしている。なんかもう全部どうでもよかった。明日できれば目を覚ましたくないと思う。