いつか薄れてしまっても

信じられないけれど今年ももうあと残すところ数日で、駆け足で過ぎ去ってゆく一年の早さを改めて実感するなどしている。

年内最後の出勤だった今朝、地下鉄のホームから地上に出て見える東京タワーはいつもよりからりとした朱色に見えて、今日まで眠って起きるのをどうにか繰り返してこられた自分を認めてあげられるかもしれない、やりきった、そんな感想を抱いていることを気づかせてくれた。

 

好きだったアイドルが活動休止をしてまもなく3年になる。職場のパソコンからこっそり閲覧したゴシップ記事で、そのアイドルについて「バラエティ番組で見せてくれたやさしい笑顔が忘れられない」とコメントを寄せている人を見かけた。ああそうだったなと、画面の向こうで紡がれたファンの言葉に対して静かに相槌を打つ。職場の入っているビルは年末年始休暇によって静かで、私はとろりと眠さを持て余す。

 

彼と彼らが表舞台から少しだけ遠ざかると知り、嘘であってほしいと願った日もあったけれど、気づけば今その痛みも薄れて他に大切なものもできている。薄情だろうか。移り気だろうか。人は重要な物事から逃れたくて、目を背けたり忘れたりするようにできているのかもしれないと考えたことがある。その可能性に思い至ったとき、なんだか残酷すぎるんじゃないかと思いもしたけれど、同時にそれが人の本質であるような気もした。いつか忘れる。なかったことにだってなる。でも忘れたいわけじゃない。そういう積み重ねの元に生きている。

 

今年、久しぶりに年賀状を複数枚書くことになりそうな気がしている。その送り先全ては大学時代の友人たちだ。卒業してから会っていない友人の声や顔を、いつか思い出せなくなる日が来るだろうか。会えないまま、互いの幸せを願うだけの関係になるだろうか。もしそうなったとしても、私たちは友達だったと思っていていいだろうか。

ゆっくりと薄れていく日々を、今を肯定するためだけの材料にしないままで抱きしめる方法を知りたい。今年この街で過ごす最後の夜に、そんなことを考えている。