自分の脚で

2年前、何も大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをして笑うことが常だった。人気の少ない20時のカップラーメン売り場は張り裂けそうになる胸を自由にするには最適で、高く積まれた商品もしくは派手な立体ポップのうしろで私は声を殺して泣いていた。人が来たら目に力を入れて涙を引っ込める。

 

何も言わないということは即ち大丈夫ということと社会では見なされる。インターネットで「”値上げしてもみんな買っている”なんてのは”生きているから死んでいない”と同じみたいだ」と言っている人を見たが、「働けているからみんな元気」も同じようなものだと思う。もしかしたらいつも笑顔のあの人が抗不安薬を飲んで出勤しているかもしれない。大丈夫を演じていたらいつしか本当に大丈夫になるシステムが構築されないだろうか。

 

今いる職場では定期的にミーティングが開催され、業務の効率化を図る文化があるが、最近はその度にあたらしい業務が追加されていく。正直大丈夫ではない。だけれども、隣にいる人に「私は全然余裕です、あなたもそうですよね?」なんて同意を求められたら「正直キツいです」なんて言えるはずがなかった。昔一度だけ「正直キツいです」と言ったけど、困惑の色を見せられたから申し訳なくなってしまって、それ以来私はいつも「大丈夫です」と答えてしまう。言わない意見はないのと同じ、そういう大人たちの中で私の幼稚な部分が露呈する。気づいてほしいのに何も言えない。子どもみたいだ。

 

どこからSOSを出していいのかわからなくなっている。あなたのキャパと私のキャパは違うから、処理できる量にも違いがある。思い悩む友人に「つらいと思っている自分を認めないことだけはしないであげて」と言ったばかりなのに、私は私自身にそれができない。早く開き直るか大丈夫になるかしたい。本当は自分の脚で立ちたい。アンドロイドに生まれ変わりたい。