週のおわりに

そういえばこれまでの人生で誰かに花を贈ったことってないなと思った。可愛いお菓子も入浴剤も手紙もあげられるけれど、花をあげるのはちょっと勇気が要ると思ってしまうのはもしかしたら私だけじゃないかもしれない。卒業式の学生の胸にも白い病室の片隅にも、私たちの日常に花は溶け込んでいるのに、花屋さんに入って誰かのために花を選ぶのはなんで難しく感じるんだろう。最寄りの駅には花屋さんがあって、そこにはリボンをかけられた花たちが並ぶ。それを見るたびにこれを選ぶ自分の姿が想像できなくて少しだけ泣きたい気持ちになる。やさしい黄色の照明が照らすのも泣きたくなる理由の一つだった。

 

信号が青になって歩き出そうとしたとき、目の前を中学生の男の子が通った。彼の左手には一輪のオレンジ色のコスモス。日焼けした小麦色の手に握られたオレンジ色はまわりすべてを吸い込むくらい眩しい。そのジャージの中学の近くには秋になるとコスモスが群生する場所があるから、そこから摘んできたのかもしれない。丁寧に摘んだ、と言うには茎は短く切られすぎていてとても花瓶に挿せるような長さではなかった。それでも、握りしめた左手から天を仰ぐオレンジ色はこの世界のどれよりも真っ直ぐに生きようとしているように見えた。コスモスと中学生のいる風景は特別な何かじゃなく、ただ日常によく溶け込んでいた。くたびれた社会人の私なんかより、花と中学生のほうがよっぽど日常をしゃんと生きている。

 

金曜日だからという理由でハーゲンダッツを買った。秋限定のリンゴとキャラメルの味。本当はハーゲンダッツを買うためにコンビニに行ったわけではなかったけれど、支払いのついでに冷ケースを覗いたらそれがあって、そういえば今日は金曜日なんだよな、じゃあ少しくらい幸せになったって許されるよなと思ったのだ。平日5日連続で働くのはくたびれるし一日5時間しか働いていない私でさえこんなになるのだから、8時間とさらに残業までしている社員の方たちの疲労はもうどんなだろうと想像してしまう。いつも休憩室で思うことだけれど、カウンターやテーブル席に座る人たちの背中は丸くて、その背中にどんな責任とやりきれなさを背負っているのだろうと思う。みんな頑張っている。壁には「黙食」の文字が書かれたポスター。おしゃべりしながら食事をする風景は追いやられつつあって、静かなのはありがたいけれどどこか息苦しさも感じる。だから休憩室の空気はいつも沈んでいるように感じるのだろうか。仕事には行って良くて、家族と職場以外の人と会って話すのは歓迎されない世界になって2年目が過ぎていく。遠くへ行きたい。電車とか新幹線とか飛行機に乗って、私のことを知る人が誰もいない街へ行きたい。知らない街の匂いと喧噪に溶け込んで消えてなくなってしまいたかった。繰り返される毎日に摩耗して自分を見失いそうになっても、花をいいと思える感性とハーゲンダッツを買うくらいの余裕は持ち合わせておきたいと思う。感性も余裕もコンビニで買えたらよかったがそんなことはできないので、明日からも自分の心を守って生きていく。