まだ見ぬ景色を脳裏に描いて

何度目になるのかそろそろわからなくなってきたが、今日も退勤後ひとりで入ったトイレの個室で声を殺して泣いた。昨年の同じ頃も同じトイレの個室で泣いたことがあったが、あの頃から私の中で何かが成長しただとか前進しただとか、そういうまぶしい変化は果たしてあったのだろうか。もしあったとしても、それは私にとっては大きな成果であるだけで、社会で働く大人の立場からすれば別に大したことでもないし今さら何を、ということしか達成できていないような気がする。

 

今日は晩ご飯に茄子の煮付けを食べたが、たった10年前は煮た茄子のやわらかさが苦手で、自分から好んで箸を伸ばすことはなかったように思う。10年前、私はただ守られる立場の子どもであったことが懐かしいとも思うし羨ましいとも思うけれど、意志を持って何かを選び取りたいと考えている今の方がずっと人生を主体的に生きている気がする。人間の寿命は最長で120年だというのを聞いたことがあるが、そのうちの10年がこんなにもあっさり過ぎていくことに呆然としてしまうしその感覚の正体は恐怖と焦燥である気がする。じゃあ長生きがしたいのか、と聞かれれば全然そんなことはなくて、長くて70歳くらい、できることなら65歳か60歳くらいで瞼が開かなくなればいいと思っている。毎日溺れるほど酒を飲んで、睡眠時間を削って何かに打ち込めばそうなれるだろうか。

 

バスの最後部の座席に座って眺めた窓の外、アスファルトに春の光がやわらかく落ちるのを見た。春を連れてきてくれた存在の手を取って歩けるようになるまで、自分の脚で立つことを諦めたくないと思う。徒歩15分、1Kの部屋に帰る想像をする。白い波が遠くに見えて、潮の匂いが満ちた駅のホームに降り立つ想像をする。まだ見ぬ世界を脳裏に描いて、疑似旅行を楽しむ癖がやめられない。私を知る人がいない街での暮らしは、安堵の感情で満たされそうだから愛おしいと思いたくなる。明日は時間があれば黄金色のプリンを食べたい。