パンケーキの記憶

人生がわからない。
いつもだいたいそんなことを思っている。

夜に人生について考えるのは良くないと見聞きするのに、夜くらいしか考え事をする時間が取れないのは一体どういう矛盾だろう。

大学を卒業する数ヶ月前、気分が優れない日が続いて、家族と喧嘩ばかり……でもないけどメチャクチャやっていた時期がある。
卒論は期限内に提出したし単位の取りわすれもなかったし、就職先も決まっていたのに気分ばかりが憂鬱で何も手につかなかったのだ。お腹の調子がずっとダメだったからその影響だろうけど。

そんな日々の中、小学校時代からの友人に車を出してもらって夜まで遊んだことがある。
今日このあと遊べる?いいよ!10分後に家出るね、夜22時頃までいい?いいよ!勢いだけで軽自動車に乗り込んで2月の街を走った。昨年の話だ。
行き先は地元民御用達のショッピングモール。
服を見たり化粧品を見たり、歩き疲れてジュースを飲んだりした。
アンバーの照明がうつくしい輸入雑貨の店で、桜風味のパンケーキミックスと桜の塩漬けも買った。
また今度これでパンケーキを焼こうねと約束をしてお別れをした。

普段の私なら遊ぶ予定は遊ぶ1週間以上前から決めないと嫌だったし、友人たちも割とそういう人が多いから、当日いきなり連絡して遊ぶなんてことは恐らく人生で初めてやったと思う。
門限という門限はないし、そこまで厳しい家庭で育った自覚もない。
だけど品行方正がゆるす範囲内での自由しか知らない私にとって、この日手にした自由は大地を吹き抜ける風のようだった。人生で二度目の自由だった。
午前3時半までバーで友人とお酒を飲んで店を出た、あの日以来の自由だった。

それから数日後、その日買ったパンケーキミックスを使って桜風味のパンケーキを焼いた。ボウルのなかをぐるぐると混ぜる。
できあがった桜のパンケーキはほんのりしょっぱい春の味がした。
桜の塩漬けを入れたからだ。
アイスクリームをこんもり載せた。バニラとティラミスと抹茶と………それからなんだっけ。
大笑いしながらついでにおにぎりも平らげて、胃の調子が悪いこととか未来が見えないこととか全部忘れた。

今でも気分が落ち込むとパンケーキを焼きたくなる。
実際に行動に移す確率は極めて低いけれど、あのほんわりとした香りとお皿に盛り付けたときに一瞬不安定に揺れるボディとか、蜂蜜にしようかジャムにしようか迷ってマーガリンに手を伸ばす幸福とか、そういうものたちにどうしようもなく縋りたくなるからだ。

パンケーキを焼くべきだろうか。

今の私は毎日きちんとご飯も食べられるようになってきたし、お薬を飲まないでも仕事に行くことができるけれど、ずうっと肩に力が入っていてそれがもう何十年も抜けた心地がしない。
幸せって結局なんなんだろうか。
普通に生きることにようやく諦めがついて、ひとつ階段を上った先に清々しい景色が見えると思っていたけれどちっともそんなことはなかった。

たとえばこの先ずっと鈍色の空が続いたとして、そこにいる私はちゃんと納得して微笑んでいるだろうか。

わからないから全部放り出してパンケーキを焼こう。
外から燻した何かの香りがする。